** まえがき **
私は2003年、還暦を迎えました。
1943年に、すでに他界したクリスチャンの父と、無口で小柄ながら父を支えきった母に育てられた6人兄弟の上から5番目、四男坊としてこの世に誕生しました。
東京の墨田区で商いをしていた父母は、戦前は商売も順調でしたが、太平洋戦争に突入し、私は母の背中に負われて疎開したらしいのですが、東京大空襲に直撃され、家と店は跡形なく消失しました。
戦後の貧乏生活は大変なものでしたが、家族はみな仲良しで、よく学びもせずよく遊び(私だけですが)、明るく暮らしてきました。90歳を超えて逝去した親父は、息子娘の写真を最後に抱きながら永眠しました。兵隊検査で不合格だった親父は戦地には行かず、子どもたち全員を成人させたことが最大の喜びであり、誇りだったようです。母も長寿で90歳をクリヤーしましたが、眠るようにこの世を去りました。がまん強い母でした。
私は、毎日近所のガキどもと飛び回り、焼け野原で学校の友達と年中草野球に興じていました。色は黒く目だけがギョロギョロしていてタヌキと呼ばれていました。
中学校では野球部、高校では演劇部に加入し、親父に連れて行ってもらった寄席の上野鈴本で仕込んだ、芸をときどき披露し高校時代は「サンペイ」のニックネームが付きました。
小・中・高校と早朝、下校後、夏休みに一生賢明アルバイトをしました。
高校を卒業し地元の信用金庫に就職。すでに兄二人が同信用金庫で働いており、播磨三兄弟として有名になり、先輩の方々には親切にして頂きました。
職場では60年安保闘争の直後で、若々しい元気いっぱいの民主的な労働組合が存在していました。私も入社後ただちに労組青年部や中央合唱団の専従団員が指導していたうたごえサークル「はこべの歌」など職場サークルに所属し、活動していきました。
その中で、戦後の苦労をとおして矛盾を感じていた「なぜ、戦争を起こしたのか」「貧部の差が、なぜあるのか」などの要因をふかめ、戦争と貧乏をなくすための努力や行動の目標を心の中に培っていきました。
職場の同僚と中央合唱団の研究生に入学し、卒業後は入団しました。が、すると間もなく、中央合唱団より、退職して専従になりなさいとの話が、職場の仲間を通して、とどいてきました。
合唱団と職場の仲間との数ヶ月の話し合いの結果「豊和を合唱団に送り出す」と野結論に達し、私は中央合唱団の専従団員として職場を離れ、実家を出て寮生活に入りました。19歳の秋でした。
その後、1991年に転職するまで専従団員としての活動と生活を29年間続けました。今回の「中央合唱団をあいする理由(わけ)−私流・昔話」は、この間、中央合唱団に携わってきた多くの方々へ、今、この時代だからこそ「ご一緒に歌いましょう」との私の願いと心からの呼びかけです。
爆笑編へと続く |